ドラマ「彼女はキレイだった」に登場する、絵本「ゴールどこかな」は、人が目指すゴールは、各自各様で良い。
(できれば、熱中できて飯も食べられる生き方)

◉人生のゴールはひとつではない。
世界には、さも共通のゴールがあるかのように人々を洗脳し、人に様々な差(民族、性別、宗教、学歴、仕事の上下、収入格差、搾取道具としての快楽、etc.)をつけ上級.下級の区別し、差別する仕組みを作って継続的に維持改悪している。
そして日本社会にも、『下級層から限りなく収奪する(金も自由も心までも)巧妙な営みがあふれかえっている』のが悲しい現実である。
その営みに歯車として、組み込まれている私たちの生活は最悪に。
ドラマは、人生のメインテーマとされる私達の誤解に気づかせてくれる。
一番大事なのは、自分で心から好きなことを見つけて、全力投球する時間を作ること。
→ 自分のゴールを見極めようとチャレンジしていれば、必ず道は開ける。
→ 他人と自分を見比べて劣等感を感じる必要は全くない。
(なぜなら、本来、皆んなゴールはそれぞれに違うから。)
→ 全力で前に進めば心が美しく(ドラマテーマ)なる。
→ 心に自信が生まれる。光がさす。
→ 思い貯めた行動も躊躇なくチャレンジできる。
人生に大事なことは、あふれる収入、社会的地位(より大きな歯車だけ)のを得る事ではない。
自分の行きたいゴールを自分で決めて(見つけて、修正して)、そこに到達するよう一生懸命に努力すること。
その道は他人が設定した収奪システムのためではなく(漫然と既製物に惰性で流されない)自分で『作り出す道』。
それこそ私たちが人生で目指す道だと思う。
いずれ必ず来る死に向き合ったとき、それまでの人生を振り返って、満足な道程だったとして死を迎えられれば幸せ。 その道程は、その人だけの究極のゴール。
私はそれで良いと思う。
人生とはその道程を探し続けて歩む事と。
◉きれいな人(魅力的な人、輝く人)とは。
見た目の重視(見栄え、金、仕事)を目的に生きる人生ではなく、自分が満足できるゴールを目指して、努力する、その行動が生み出す内面からでる自然の美しさ(化粧された見栄えではない、学歴、身分、収入でもない。)が現れている人が魅力的で輝いている人だと思う。
『自分の道を見つけるために、今日、明日、どう道をどう歩くか。』

かく言う私自身もこの年になっても、心の底からやりたい事、継続的に熱中できるものを、今も探索中。
これまでの私が全力疾走した記憶をたどれば、
「子供達と共に少年野球に没頭した1年」と「市民に喜ばれる札幌市豊平館作り(途中でクビになったが)」に関わった1年くらいしか思い浮かばない。
サラリーマンとしての40年間。仕事に明け暮れた日々は、自虐すればワクワクドキドキした仕事として熱中したわけではなく、その場しのぎの惰性だったと今思う。
あの頃は収入が倍にはなったが、これが「天職だ満足だ」と誤認させる社会システムの中で踊らされていただけ。
じゃあ、今の私はと言うと。
絵描き、料理、菜園、webマガジン発行など、「何か新たに作り出すもの」に没頭している時はとても幸せを感じ、サラリーマン時代とは明らかに違う充足感を持てている。
◉自分自身の見方を変えれば世界は変わる。
趣味を超えるもの。
人は、自分の可能性を信じ、やりたい事に向かって行動する。
結果、たった一人だけのイイネでも、行動によって開かれた、立派な自分の道だと思う。
私は、今70歳。
これから30年かけて、もっときれいな自分になりたいと思っている。
「彼女はきれいだった」は原作が韓国の作家、これほどピュアな生き方のドラマは今の日本人には作れないだろう。日本に蔓延する、吐き気する残虐な犯罪もの、愚劣な自虐ネタバラエティ番組、深掘りのない忖度報道番組などなど。
これら、操作されたマスメディア情報に操られる国民。
日本を発展途上国に落としめられている現実にすら気付かないでいる。
これまで、日本人は金太郎飴教育(学歴至上主義、収益最優先、隷属)にどっぷりと浸って来た。
支配者は、官僚を使って国民に自分自身の階級(受験後の結末)を認識させて、米国隷属国家としての日本に上級下級差別をも作り、無抵抗な三猿人間を作って来た。
江戸時代から、明治、大正、昭和、平成、今もそう。
私も雄さんもその渦中にいるね。
『彼女はキレイだった』単なるラブコメドラマではなく、日本人が忘れさせらている、大切なものを語っていると感じた。

【自分の可能性を信じて行動する】
ドラマのなかから
雄さんにも日本人が忘れた「ピュアな生き方」に改めて出会ってほしかった。
為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり
いくつになっても、必死になって、おしきせではない、やりたい事を見つけよう。
見つかったら全力で努力しよう❗️
その結果は、死に際になって、必ず人生を楽しめたと確信できるよ。
私からの、メッセージは多分これが最後かな。
私も、これからも弛まずチャレンジするよ。
Ps.
伴侶は、耳目の不自由な自分がいくべき道を歩き続けるための、伴走者。
大事な人は、見つけたら、しっかり手を繋いで離さない!
ね!
父より
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